Orangeそして橙書店讃江

それは何かといいますと、一口にいえば「フランスの裏町の路地をずっと入ったところにある江戸時代の貧乏長屋みたいな風情のある一画にひっそりと営まれている小さな雑貨屋兼喫茶店、あるいは画廊、そして本屋」
その一画は、昼なお暗く、夜はいつまでもこうこうと明るい。
中に入る。天井は低く、床はきしむ。椅子はばらばらで、古い木のニオイがむんむん。置いてあるものは、どれも息を呑むほどおもしろげで、まっすぐ、知らない世界につながっている。食べものはどれも、めずらしく、そしてなつかしい。忘れちゃいけないのは、人のニオイ。
Orangeほどヒト臭い場所はめったにありません。
そこにいる人たちの生きてきた時間が、経験が、わたしたちを包み込む。
客のひとりびとりの時間もあれば、オーナーの田尻久子さんの時間もある。客の時間とお店側の時間は、密なようでいて隙間がある。そこに風がとおる。
わたしたちはお店の中で、わたしたちのままひとりになれて、しかも孤独ではない。
カウンター脇の狭くて低い戸をくぐると、向こう側にひろがるのが橙書店。
こんな怖い本屋さんはありません。
詩人がここに入るやいなや、自分はここに立つことに値しているかいないかと、緊張感でぴりぴりする。そこにわが本が置かれてあると、こんどは恍惚と不安にへどもどする。そうして信頼する、全幅の信頼をもって、この小さな小さな本屋さんを。
この本たちを手ずから選び、出版社と交渉して仕入れ、ここにならべ、ひとつびとつを丁寧に人に手渡してくれる田尻久子さんは、無鉄砲で融通無碍で、義にあつくて情にもろくて、気っぷがよくって小股のぴしりと切れ上がった漢(おんな)であります。
夜更けにお店から外に出ると、ヨーロッパの白夜、町に遊んでさて帰ろうと思って外に出たときに感じるのと同じ違和感をまざまざと感じます。それは、町と人との違和感か。地球とわたしたちとの違和感か。文化への、あるいは、人が一人ここに生きていることへの違和感か。