伊藤比呂美×神野先生

連詩のときに比呂美さんの字を拝見しましたが、名刺のようだと感じました。
伊藤比呂美です」という字です。
誰かに自分を紹介する、表面的な自分を見せる字でした。
初めて会った人にも伝わるような。
なんとなく伊藤比呂美っぽい字だな、と思ってしまう字。
でも、神野先生の書はそうではなかった。
神野先生は詩を詠んだ本人ではありません。
比呂美さんが創った詩を神野先生が書くのですから。
けれど神野先生の書は「解釈」とは違いました。
解釈は詩の受け取り手が誰であるかによって変化するもの。
ほとんどの人は、その詩を自分なりに解釈して書くと思うんです。
神野先生の書は、伊藤比呂美の詩についての神野先生という個人の解釈ではなく、伊藤比呂美の世界を写しとったもの。
つまりのちにあれこれ解釈されるべきさまざまな要素をすべて含んだもの。
一見強そうな目やひそめた哀しみや女や言葉にとり憑かれた詩人を含んだもの。
仲の良い人や研究した人、惚れてよみ込んだ人でないと気づかない面も含めた伊藤比呂美
揺るぎない伊藤比呂美
書は本人よりも伝わってしまうので、こんなにさらけ出して比呂美さんが恥ずかしくなるのではないかと、懐かしくなるのではないかと思ってしまうくらいでした。
泣けました。
その涙は神野先生の書に、というよりも、「とげ抜き新巣鴨地蔵縁起」で初めて伊藤比呂美の世界に出会ったときと同じ感覚に引き込まれて、です。
あの書に神野先生という書き手の姿はありませんでした。
あの書は、一心同体でした。
なんて素晴らしい、恐ろしい書なんだろう、と感動しました。
神野先生ってめちゃくちゃスゴイ書家だったんだ!!と改めて驚きました。
伊藤さんが言っていた「翻訳」という意味を自分なりに実感して捉えることができました。

丁稚M