きぬえの「本は読みよう」第2回

あまりに野蛮な  上

あまりに野蛮な 上

あまりに野蛮な  下

あまりに野蛮な 下

著者が『夜の光に追われて』で子どもを失った母の「物語」に入っていったのは、もう20年以上も前。そして今、日本の植民地だった台湾を舞台に、子どもを死なせてしまってなお、生きつづける、いや生きたい女たちの浮遊するタマシイが、先住民の「野蛮な」タマシイの世界の中で浄化される物語を書いた。「蕃人」たちの首吊りも、勇者のしるしの「雲豹」狩りも、文明が名付けた野蛮ではなく、ありのままの野蛮として。そう、「女の野蛮」の視点が開かれたのだ。ミーチャとリーリーはそのような女たち。ミーチャ(美世)は、フランス社会学が専門でタイホク高校でフランス語を教える明彦との結婚のため、1931年からの四年間をその地に暮らした。小説は、ミーチャの死後生まれた姪のリーリー(茉莉子)が、2005年の台北を訪ね、ミーチャが遺した明彦宛ての手紙と僅かな日記を辿るうちに、七十年の時を超えてタイペイとタイホクが重なりはじめ、ふたりが近づいていく、という構成をとる。めんめんと流れ続けてきたタマシイの存在を蘇らせるのは、夢であり、想像であり、そして追憶である。まさに著者の本領発揮というところ。
頭から離れないのは、自然の奔放や性の悦楽を賛美する明彦とともに「エロ学」に励むミーチャの結婚生活だ。言論界は「新しい恋愛」の季節を迎え、「エロ」は当時の流行語だった。とはいえ、主婦業、夫の原稿の清書と索引作り、そのうえフランス式産児制限を称揚する一方でコンドームの装着に不熱心な夫との夜ごとの「エロ学」の実践にと、三重労働にミーチャの身はボロボロになっていく。息子は満一歳で死んでしまうし。新進の学者の妻の生活とはこんなだったかもしれない。女の「子宮」は、「冷感症」というレッテルは、そして女の「月のもの」は男の快楽のためにあるのか、とミーチャの内心の声が叫ぶ。生殖を軽んじた性の快楽の思想と、女の体をもったミーチャの間にある決定的なすれ違い。植民地の監視社会を背景に、だんだん「自分の領分」を失っていくミーチャが狂気の境をさまよう光景は圧巻だ。一葉の「にごりえ」の中の、お力の独白夢遊の場面を想起させる。
ミーチャとリーリーの二重奏に、不思議な日本語が小説の後半を縫っていく。リーリーが現地で知り合った本島人の男性ヤンさんがしゃべる日本語だ。四十歳くらいの彼は被植民地の記憶を生きる世代だが、「百歳」の先住民のおばあさんは流暢な日本語を話し、ミーチャの手紙と日記は歴史的仮名遣い。このようにポストコロニアルな、重層的な日本語を取り込みながら、この物語の最後は、台湾とも限らない島で、赤ん坊を背負った登場人物たちが旅に出る、いわば再生のイメージで閉じられる。読み終えて語り手が誰かも、よくわからない。おそらく著者は、現代の神話的な物語を企んだのであろう。さあ、あなたのタマシイが呼び寄せられるかどうか、この小説が試されている。(谷口絹枝)