きぬえの「本は読みよう」第3回

 最近、必要があって「女性と高等養育」をテーマにした学術書を読んだ。ヨーロッパ諸国と日本を舞台に、19世紀半ばから20世紀前半にかけて、女性が高等教育に進出した歴史的経緯を捉えた論文集だ。それらに触発されて、直観的に2冊の本が私の頭の中に浮かんだ。

三ギニー (ヴァージニア・ウルフコレクション)

三ギニー (ヴァージニア・ウルフコレクション)

 まずは、イギリスの作家ヴァージニア・ウルフが1938年、52歳の時に世に送り出した『三ギニ―』という長編エッセイ。ウルフといえば、『ダロウェイ夫人』にみられるような、意識の流れを追及する独自の文体を確立したモダニズム作家として、プルーストジョイスと並び称されているが、彼女の真価はそれに収まらない。女性と文学について語った『自分だけの部屋』のように、フェミニズムで発想された彼女の才気溢れる作品によっても、今日まで読みつがれている作家である。『三ギニ―』もそのような作品の一つに入るだろう。
 ファシズムに抗し、戦争を未然に防ぐために女性は何ができるかを語った本書で、戦争を男性的論理がもたらした暴力だとみるウルフの高等教育論が冴えている。女性にも大学教育をと要求した時代に、ウルフは、女性が男性並みの高等教育に参加することは戦争を支えるようなものだと述べ、かといって、従来の良妻賢母教育でもなく、必要なのは、女性が経済的に自立して自分の意見を持ち、社会に影響力を及ぼすことのできる新しい高等教育だと説いたのである。まさか今日では、女性ならば戦争に加担しないなどとは誰も信じないが、「男性的」価値観の「アウトサイダー」に立った視点は、まだまだ「女性」の経験を欠いた現代の知のありようを見直すためのヒントを与えてくれる。もっとも、ウルフ独特の辛辣なユーモアを交え、グルグルと螺旋を描きながら結論に至る論証スタイルを、本書の魅力ととるか、うるさがるかは、読み手にまかされている。
青春の終わった日――ひとつの自伝

青春の終わった日――ひとつの自伝

 もうひとつの本は、児童文学者で『ゲド戦記』の翻訳者である清水眞砂子が、27歳のある日、自分は「この道をいくしかない」と思うまでを綴った『青春の終わった日』である。「青春が終わる」とは、何でもできると思えた青春という不自由からの解放を意味するという。これは、ひととおりの自伝ではない。貧しく暗かった家に暮らしながら、複雑で豊かだった子ども時代の「森」へと分け入った著者には、自分を生み育んできた家族や出会った教師、そしてたくさんの本やもろもろのものの声がきこえ、時に人に傲慢で、自分も血を流して得たものの声がきこえる。そうしたこころの記憶を、その後に獲得したことばに移す手並みのなんとすばらしいことか。
 著者は、1960年前後に男女共学の大学教育を受けた戦後の申し子だ。小中学校の同級生の女性たちの多くが、結婚して食べていくしかなかった時代に、広い世界をのぞく喜びに浸り、高校の英語教師として自活を始めた。「もう、これからは洗濯も炊事もしないですむ」と思わず言った相手との婚約を破棄し、温厚な人柄だが「手足を存分に伸ばして」生きることを共有できなかった男性との離婚も体験した。どこか、宮本百合子の小説『伸子』を彷彿させる著者の青春との別れである。(谷口絹枝)