きぬえの「本は読みよう」第4回

パルタイ (新潮文庫)

パルタイ (新潮文庫)

 倉橋由美子の短編「パルタイ」は、読み返すたびに、新しい解釈ができる刺激的でおもしろい小説だ。1960年に24歳の学生作家として「パルタイ」でデビューしたこの作家の、アメリカ体験までの初期の作品を、私はひいきにしてきた。そこに、女性性に鋭敏な存在感覚と文体との緊張関係を嗅ぎとるからである。
 『文學界』4月号が企画した倉橋由美子をめぐる座談会で、加藤典洋が「パルタイ」の文体に出合ったときの衝撃を語り、現代文学の新しい作家として大江健三郎安部公房と同等に評価されていたら、現在のややマイナーな作家という扱いも違ったのではないか、と述べていた。こうなると、加藤氏とは別の角度から、私はわたしの「パルタイ」を紹介したくなる。
 「ある日あなたは、もう決心はついたかとたずねた。」という一文で始まる「パルタイ」は、固有名詞を排し、手垢のついたことばを≪≫でくくり、会話文を地の文に織り込み、そのうえ翻訳文体のような独特のスタイルに貫かれている。筋らしい筋もない。主人公の女子学生「わたし」が、革命党パルタイに入党する決心をし、最終的に離脱を決めるまでを描き、深めていくパルタイへの違和感を歪形のイメージによって表現する。その違和感は、パルタイの観念性、あるいは組織と個人の関係が「不透明」であるような不条理な現実に向けられたものとして、まずは読める。だが、この小説には、女性が〈第二の性〉に置かれた状況への根源的な違和感が底流しており、「わたし」が女性として設定されるがゆえのダイナミズムを見逃すべきではない。〈第二の性〉とはもちろん、「女は女に生まれない。女になるのだ」という有名な言葉とともに戦後女性論のバイブルとなった、ボーヴォワールの『第二の性』に拠る。「女とは何か」が、男を基準にして妻・母・娼婦…と名づけられ、意味づけられ、自らがそれを引き受けてしまう女の主体のありよう(すなわち他者化された性)を読み解いた、あれだ。たとえば、「わたし」は「《労働者》」との性交渉を「《種》を異にする動物同士」の関係で捉え、「しかしわたしはほぼ完全に明晰でありつづけた。」という箇所について。相手の男性をモノ化(他者化)し、セックスに付着した意味を剥ぎ取る視線は、女を〈第二の性〉に囲い込む同時代の男性社会の観念性への、女の位置からの痛烈な転倒として読めてくるのである。
決定版 第二の性〈1〉事実と神話 (新潮文庫)

決定版 第二の性〈1〉事実と神話 (新潮文庫)

決定版 第二の性〈2〉体験(上) (新潮文庫)

決定版 第二の性〈2〉体験(上) (新潮文庫)

決定版 第二の性〈2〉体験(下) (新潮文庫)

決定版 第二の性〈2〉体験(下) (新潮文庫)

 だが、いかんせん、妊娠という事態が「わたし」に自己疎外感を深めさせる体験として感受されるのである。女であることが、自らの意志に関わりなく意味づけられてしまう不条理を取り出してみせる一方で、自らの身体を否定的に捉えざるを得ないというアンビヴァレントな身体感覚。「わたし」は女として存在することの迷路に入り込んでしまったようだ。女にまつわるこのような不条理が、既成のリアリズムの言語を作り直した独特の文体と出会って表現された背景に、政治と女性と文学をめぐる1960年という時代を感じる。
 生殖する性への否定的な身体感覚と文体の関係という点で、河野多恵子の「幼児狩り」を思いつく。「パルタイ」と同年の発表だ。〈女という性〉を女性自身がどう言語化していったか。何度目かの「パルタイ」再読によって、その後の文学の展開へと私の思いは誘われていく。(谷口絹枝)
幼児狩り/蟹 (新潮文庫 こ 9-1)

幼児狩り/蟹 (新潮文庫 こ 9-1)