きぬえの「本は読みよう」第6回

 高群逸枝といえば、なんといっても日本で女性史学を樹立しようとした最初の人、のイメージが強い。家父長制家族制度が有史以来からあった日本の誇るべき習わしだという通説を覆すべく立証するために、昭和6年、世田谷の「森の家」に蟄居してから死を迎えるまでの三十数年間をかけて、『母系制の研究』(昭和13年)、『招婿婚の研究』(同28年)、『女性の歴史』(同29年)などを書いた。その膨大な古典的資料を援用した記述の前に、無学な私は立ちすくむばかり。『火の国の女の日記』のナルシシズムや、聖と俗をごったにしたような言葉の合成フレーズのような長い長い詩篇を、本当に読んでいるとはいえなかった。そんな私に転機をもたらしたのが、石牟礼道子の言葉である。
 それはこういうことだ。学界が黙殺し続けた高群の女性史学に、はじめて全面的な検証を挑んだ一人の歴史学者がいる。彼が十余年の歳月を費やして得た結論は、なんと、高群が自説の根拠とした平安中期における「母系家族」そのものが「虚構」の産物であった、という事実だ。つまり、「史実」ではなく、「男の虚構」に対し、「女の虚構」で対決して女性解放を果たしたというわけだ。しかし、この驚くべき事実に対し、高群の女性史への共鳴を熱く何度も語ってきた石牟礼は、次のようにさらりと言い切った。「女性史学という劇を彼女は書き、自ら演出しました。何という愉悦だったことでしょうか。」「こうあって欲しいという女たちの国を最高に良い形で作り上げてみせる、という詩の学問との刺激的な調和」「神話劇みたいな大叙事詩を書こうとする衝動」を感じると。(発言は、栗原弘『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』1995年、高科書店、に収録)。失われた自然と人間性への祈りを、女の生存を根とする近代文明批判として演じ続けた高群と石牟礼、その両者に通じあう詩性というものに、瞬時、触れ得たうれしさのあまり、私は泪をこぼした。

 高群逸枝の壮大な叙事詩的な長編詩は、近代詩史のなかでほったらかしにされたままだ。1921(大正11)年、長編詩集『日月の上に』で詩人としてデビューした。平塚らいてうの『青鞜』を支持した生田長江によって見出されたのだが、詩壇の権威たちからは笑いものにされた。冒頭に「汝洪水の上に座す/神エホバ/吾日月の上に座す/詩人逸枝」という4行の題詩が置かれ、全七十章(全集は六十七章に改稿)の下に、幼児期に山中で「神隠し」にあった「娘」が東京へ出るまでの、この世に生きる場所がなく、もがく魂の放浪を辿る詩人誕生の物語叙事詩といえる。不可視なものを見透し、時間と空間の奥深く分け入っていく意識の表現に、存在の始源へ向かうこの詩人の資質が刻まれている。

 関東大震災の直前に書かれ、1925(大正14)年に発表された『東京は熱病にかかっている』は、石牟礼のいう「神話劇みたいな大叙事詩」さながらである。時事問題や事件をテーマに、政治家、学者、社会主義者、宗教者、詩人、小説家、評論家、労働者、娼婦、都市流民たちが入れかわり立ちかわり登場して自説を述べ、時に声をそろえ、「私」は民衆の女詩人としてうたう。言説の大コラージュという形式、多声渦巻くなかに普遍を響かせる内容、破調のリズムが脈打つ詩篇である。
 大正中期以後の資本主義の行きづまりの時代、ヨーロッパの表現主義ダダイズムを日本に移して前衛芸術を試みた潮流に、高群逸枝という詩人を置いてみる。現実社会の周縁に置かれた存在として、「女詩人」と「民衆」(下層階層)を結びつけ、そこにこれまでどこにもなかった表現の地平を切り拓こうとしたすがたが、見えてくる。(谷口絹枝)