きぬえの「本は読みよう」第9回

 村田喜代子の小説は、いつも新しい世界の見方で読者を楽しませてくれる。日常の中に異空間を作り、そこに人の世にある、どうしようもない普遍をユーモラスに描く作家だ。『ドンナ・マサヨの悪魔』も然り。

ドンナ・マサヨの悪魔

ドンナ・マサヨの悪魔

 マサヨは、結婚生活三十年にもなれば、夫、タカヒロとの離婚について考える普通の主婦である。ある日、ミラノのデザイン学校へ通う娘の香奈が、イタリア人男性でローマ大学東洋学部の学生であるパオロ・マローネとできちゃった婚をした。無収入の二人は出産のため、妊娠四カ月で一緒に帰国し、二世代の夫婦の日伊文化が混合した同居が始まった。香奈の出産に翻弄される日常が、四人四様のおかしみを帯びた会話のやりとりのもつリアリティによって描かれるなか、赤ん坊はどこからやってくるのか、という人類の根源にかかわる謎に、語り手のマサヨが分け入っていく。
 マサヨは犬から「にしのほうから、こどもがひとりやってくる。たぶん、おとこのこだ」と告げられ、さらに同居を始めた香奈が眠った時のおなかの中から、姿は見えないが、低い、獣めいた男の声で「ばあさん」と呼びかけられる。その声の主が、マサヨの「悪魔」こと、生まれる前の赤ん坊、つまり孫というわけだ。イタリアの画家たちが描いた「授胎告知」の絵を香奈の妊娠の導線とし、「悪魔」に、マサヨとの心的対話で赤ん坊が生まれるまでの来歴を縦横に語らせて物語を展開させていくという作品の構造は、なかなかのものである。「悪魔」は、水から陸に揚がって二足歩行のヒト科人類に進化するまでに、繰り返した生き死にの記憶を刻んでおり、したがって赤ん坊は「向こうから旅してきた者」で、ばあさんは「これから向こうに行く者」だと教える。生命の誕生を進化論的に把握する見方でいえば、夢野久作の『ドグラ・マグラ』をすぐに思い浮かべる。しかし、『ドンナ・マサヨの悪魔』の場合は、進化論への興味があって、なお個人を越えた命の働きを死と生を繋ぐ転生と見、マリアならずとも命を到来したものとして受けとめるのが作者の眼目であったと思われる。だからこそ、セックスの覚えあるなしに関わらず、妊娠は「女性の身に起こる一大事件」であるという身体感覚のもと、妊婦は母性などで美化されず、妊娠・出産が女性にとって労働にほかならない日常の光景が、作品を盛り上げていく。
 この小説を「妊娠・出産小説」と名付けるのはともかくとして、「おばあさん小説」という読み方はすっきりしない。マサヨは、人類学者たちの説いた『おばあさん仮説』に必ずしも同意しているのではなく、種の繁殖への貢献という見地に基づく、祖母の役割への讃歌をむしろ相対化しているのだから。現代に生きる祖母としては、閉経後の人生を自分だけのために使いたいという欲求を鎮めることはできない。いうなれば、現代人にとっての生殖をどう見るかという、卑俗にして深淵な、即物的にして宇宙的な人間の生態について、改めて発見する小説といえよう。ついでにイタリア語講座、イタリアの文化ガイドブックとしても楽しめる。
 最後にひとこと。死を生きる宿命を背負った人間存在を姑と嫁の心的対話で描いた『蕨野行』と、あわせて読むことをお勧めしたい。世界の見方がさらに新しく広がってくるかも。(谷口絹枝)
蕨野行 (文春文庫)

蕨野行 (文春文庫)