きぬえの「本は読みよう」第11回

この往復書簡の意外な顔合わせと「玉突き」という風変わりなタイトルに惹かれて手に取った。なぜ意外と思ったかといえば、私が読んだことのある徐京植(ソキョンシュク)の文章は、それは「従軍慰安婦」の問題に触れて書かれていたが、在日朝鮮人二世の視点から、国家、国民、民族の幻想を鋭く深く問い、「わたし」を掘り当てようとするものだった。かたや、ドイツに住んで日本語とドイツ語で作家活動を展開してきた多和田葉子については、私は日本語で書かれた作品しか読めないが、「わたし」を掘り当てるというより、「わたし」を創り出すような感覚を味わってきたからだ。
さて、往復書簡は、徐京植が東京で勤務する大学での「国外研究」のため、2年間の予定で韓国ソウルに滞在し、他方、大学卒業後東京からドイツへ渡った多和田葉子が、25年間住んだハンブルグからベルリンへ引っ越して一年になる頃に始まった。それぞれ「ディアスポラ」(徐)と「移民」(多和田)を自認する両者の間には、体系化された「国」からの逸脱者という接点がある。と、ひとまずは言えるのだが、家、名前、光、声、殉教など10の話題を交互に出し合い、10か月間に10往復した「ことばの玉突き台」でのやりとりには、時に打ちそこね、打ち飛ばし、打ち誤りが双方に生じ、観戦者をひそかに喜ばせるのである。一例を挙げよう。旅を話題にした第3信で、徐が多和田の連作短編小説『容疑者の夜行列車』を取りあげて、「時刻表や地図が苦手な人間には、ああいう作品は書けません」と言い、「点と線」を書いた松本清張の「意図せざるその継承者かもしれませんね」と称えた。これが自称「時刻表音痴」の多和田の小説にだまされたがための勇み足だったことが明らかになってくる。しかし、この打ち誤りによって、「鉄道が言語と言語を結ぶ」という多和田の、身体移動とことば・物語の発生の関係についての興味深い話を引き出すこととなり、読者には愉楽のひとときが与えられるのである。
徐が最後の第10信で、動物の受精のシーンの受精と卵割を引き合いに、「境界を越える行為と、境界をつくる行為の組み合わせによって生命そのものが構成されている」ことへの「割り切れない気もち」を語っている。あっ、そうか。さまざまな境界について、徐は境界の意味を問い、多和田は境界の狭間を創造する表現者といえるのかもしれない。おそらくその背後には、「ディアスポラ」を強制された立場の者と、意図的に「移民」の場に身を置く者との違いが関係しているだろう。その両者から照らし出された境界を語る言葉は、豊かで刺激的だ。書簡の期間中、徐はザルツブルグオスロ、カッセルと巡ってソウルに戻り、多和田はベルリンからニューヨーク、オクラホマ・シティへ、東京へと向かう。両者の思考を生み出す移動と境界を目の当たりにした気分だ。
アメリカに降り立った「あなた」の二人称の語りで、いつの間にか「あなた」と「あなた」の眼差しの対象の境界が錯綜してくる多和田葉子の『アメリカ 非道の大陸』が、ふと頭に浮かんできた。(谷口絹枝)
アメリカ―非道の大陸

アメリカ―非道の大陸