きぬえの「本は読みよう」第13回

 本書は、お経を現代詩に開放した仕事である。作中の「新訳『般若心経』」は、原典「般若心経」のことばが、生きられている現代の詩のことばに結びついた傑作といえよう。お経の解説とも逐語的な現代語訳とも違う、そのこころは、まさしく<いま、ここで>の「読み解き」とみた。

読み解き「般若心経」

読み解き「般若心経」

詩人で50歳を過ぎた語り手の「あたし」は、母の介護でカリフォルニアと熊本の間を頻繁に往復し、親しい友人は夫を亡くするなど、身近な人間たちの生老病死の苦に行きあっている。まだ覗いたことのない、死というもののイメージを手にしたくて、般若心経、白骨、観音経、法句経などのお経に出会ってはむさぼり読み、ひたすらに考える。そんな「あたし」の生活を綴った地の文と、漢文や読み下し文やひらがなで書かれたお経のテキストと、それを自分のことばに置き換えた現代詩との、三層の言語が組み合わさって、本書は成り立っている。読み終えると、言語間での異質性が浮き上がってくるよりも、ことばのリズムや響き、語り口において統合された何か、の方が残っているのだから不思議である。過去の幾層もの時間を束ねた言語の大きな流れの中で、お経を超えた生きとし生けるもの全体の意識と無意識とに、わが身をさらしている「あたし」が見えてくるのである。
「あたし」は、「いつか死ぬ。それまで生きる。」という真理を納得する地点にたどり着く。そう、「読み解き」の過程そのものが、想像も妄想も呼び込み、業強き生をサバイバルする物語であったことに、読者は気づかされるのである。詩の真髄とは、こういうものであろうか。
 女の詩人は自分に正直に生き、それゆえにかつての家庭を壊した。母に連れられて日本を飛び出した娘たちが、移住先に自分の居場所を見つけ出すまで、母と娘の物語が続くだろう。近代フェミニズムは、母への愛憎のアンビバレンツに引き裂かれた<娘のフェミニズム>、つまり<母親殺し>の物語から<母親探し>の物語への展開、さらに母が母であることを語り、そして娘を語るという<母のフェミニズム>への展開を、近代家族の物語としてつかんで見せた。本書をその文脈に置いてみると、母であり娘である「あたし」は、<娘のフェミニズム>と<母のフェミニズム>を重層的に語っている存在ということになる。しかも、「読み解き『般若心経』―負うた子に教えられ」の章に典型的にみられるように、藁にもすがる思いで救命ボートをともに漕ぎだそうとする「あたし」と娘との関係は、かつての見慣れた母娘関係の光景ではない。「あたし」の生きたい業ゆえに「家族」を破壊し、非血縁的な家族をつくった具体的な体験が、ふりかかる悔いも苦も流し込んで新しい母と娘の物語に変わっていく場に、読者は立ち会っているのかも知れない。
 「さて。もう行かなくちゃ。」と「読み解き」は閉じられ、「死ぬまで生きる」という舞台に幕が下ろされる。あとには、溜息や吐息や感動や希望やらが観客席に漂うばかりである。舞台に自分もいたような気がして。(谷口絹枝)