助手による受講生のための予習メモ(10月) その5

「先生」を読む


最後は再び「先生」に戻ります。
とは言っても、やはり読むのは「上」なんです。


「恋は罪悪ですか」と私がその時突然聞いた。
「罪悪です。たしかに」と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。
「何故ですか」
「何故だか今に解ります。今にじゃない、もう解っている筈です。あなたの心はとっくの昔から既に恋で動いているじゃありませんか」
私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれども其所は案外に空虚であった。思い中るようなものは何もなかった。
「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいない積りです」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
「今それ程動いちゃいません」
「あなたは物足りない結果私の所に動いてきたじゃありませんか」
「それはそうかも知れません。然しそれは恋とは違います」
「恋に上る階段なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」
「私には二つのものが全く性質を異にしているように思われます」
「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、猶更あなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際御気の毒に思っています。あなたが私から余所へ動いて行くのは仕方がない。私は寧ろそれを希望しているのです。然し……」
私は変に悲しくなった。
「私が先生から離れて行くように御思いになれば仕方がありませんが、私にそんな気の起った事はまだありません」(上−十三)
(今年新潮社から「限定SPECIALカバー」として発行された文庫本より引用)


橙大学 第4回 10月23日(土) 夏目漱石「こころ」 どうしていつまでも読まれ続けているのか @橙書店