きぬえの「本は読みよう」第1回

女の絶望

女の絶望

 この本は、「伊藤しろみ」こと「あたし」が東京落語の話芸で、新聞に寄せられた人生相談に答えるというスタイルをとっています。これは、「相談文学」ともいえる新しいジャンルだと誰かが評してましたが、いえいえ、小説体の言文一致と格闘してきた日本近代文学の正統を突っ走っています。だから前衛かも知れません。学者H氏の蘊蓄によると、これまで「一人称」の問題は、書き手の「自己」との同一視がとかく指摘されてきましたが、むしろ自ら虚構であることを読み手に騙る(だます)ための手立てとしてあったのだということになります。とするとこの本は、聞き手(読者)を当然想定した話芸でもって、より言文一致に長け、誰彼からの人生相談と称していろんな誰彼との会話のやりとりを進め、ときに横町のご隠居や藪井先生やらの口も借り、気配り十分に聞き手を楽しませる「しろみ」さんの語りとなります。相談者から分け隔てなくセックスの悩みを仕込み、まさに「事実は小説よりも奇なり」を演じてみせてくれるのですから、書き手の技量も相当のものといえましょう。「一人称」小説の前衛です。
 内容だって一本筋がとおってますから、気持ちがいいんです。深いんです。「あたしはあたし、という生の基本」を思春期や、男との縁や、子育てや、親の介護やらの荒波にゆられ揺られ、実践してきた「あたし」。女しかやったことのない「あたし」が、血気盛んでうっとうしかった思春期をはるか後にして、血も渇き容色廃る閉経期に来たとき、さあどう向き合う。「おれァおまえの山姥みたいなとこが好きなんだから」とのたまう良き夫がいて、かくして「正々堂々とあたしのままで」いることに。女は自らの正体だった「山姥」に帰っていくんですね。大庭みな子の『山姥の微笑』も顔負けです。「しろみ」版山姥説話のオチを読んでください。私は、声をたてずに号泣しました。ハイ、女は「絶望」してません。
(谷口絹枝)