イギリスで読んだ「倫敦塔」2(奥山文幸)

近代文学研究」第26号(日本文学協会近代部会、2006年4月発行)より著者の了承を得て転載。

 九月一日に成田空港を出発し、香港経由で現地時間翌日の早朝にヒースロー空港に到着すると、雨であった。そこから、ロンドンのヴィクトリア・コーチステーションに行き、カンタベリー行きのバスに乗り換え、篠突く雨の中、カンタベリーで住居を探す予定で五泊の予約を入れた郊外のB&B(比較的安い朝食付き宿屋)にチェックインしたところまでは、天候以外は予定通りであった。
 予定が大きく狂い始めたのは、私のノートPCでは、インターネットができないということからであった。イギリスのブロードバンド状況が、日本より数年遅れていることは、ネットを調べていてわかっていたが、大きな思い違いは、日本の数年前と同じではなかったことだ。つまり、ネットの接続方法が別様に発達してワイヤレスルーターによるものが主流になり、日本のようなLANケーブルでは接続できなかったのだ。これで、B&Bでは、日本から持ってきた私のノートPCは使えない。
 私は、イギリスに縁もゆかりもない。頼るべき人もいない。すべてはインターネットによる情報収集でここまで準備してきたようなものだ。情報が手に入らなければ、アパート(イギリスではフラットという)を探すことすらできない。宿の主人に、インターネット・カフェは何処にあるのか聞くと、主人はカンタベリーにインターネット・カフェがあるかどうかすら知らないという。カンタベリーは、ロンドンの東、高速バスで二時間くらいのこじんまりとした田舎の都市である。そこで、インターネット・カフェを探すことから始めなければならなかった。結局、町はずれの旅行会社の二階にある、一〇年以上前には日本でも見かけることができた(1メートルも奥行きがありそうな)ブラウン管モニターを一〇数台、机の上に置いただけの、(コミックも雑誌もフリードリンクもない)そっけないインターネット・カフェを偶然見つけて、私の情報収集が始まった。料金は、一時間三ポンドである。
 現代社会の経済格差は、情報格差がその原因になることも多い。何の因果かこのような情報貧者になってしまって、自分がいかに無防備で異国に来てしまったかを思い知らされ、情報格差が、自己の生存を脅かしかねないことを改めて意識した。
 この状況でわかったことは、自分が、常に新しい情報を入れていないと軽いノイローゼになる情報中毒者であるということである。


 カンタベリーの不動産屋は、フラットの貸し物件程度のものにはさほど熱心ではない。これに限らず他の分野でも、少しでも業績を上げようという、売らんかなの精神は、この国では基本的に希薄なのかもしれない。あるいは、貸し主の権利が強い国なので、借り手よりも貸し手に気を遣うのかもしれない。ともかく、数少ない物件のなかからこちらが希望するフラットを見学できるのは、決まって翌日の午後であった。そうすると、B&Bに帰ってから、翌日の午後まで待機の状態になる。幾つかの物件が、すでに契約済みになってしまったり、見学したあとで空き室になるのが一ヶ月後だと言われたり、こちらの期待に反してうまくいかないと、もう永遠に見つからないような気になってくるから不思議である。
 そんな憂鬱を忘れるために、ノートPCで読書をした。気晴らしだから、大衆文学もよかろうかということで、野村胡堂銭形平次捕物控」を読んでみる。シャーロック・ホームズ調の謎解きが興味深いが、現在の無聊を慰めるにはなんだか物足りない。いろいろ試してみて、手応えのあったのは、昭和よりは明治の文学が多かった。
 なかでも、漱石の「倫敦塔」の冒頭部分が強く印象に残った。それまでは、漱石にしてはごく普通の文章として、ほとんど読み飛ばしていた部分である。そこには、イギリスに来て、あたふたと過ごしている私の不安と本質的に同じものが、描かれていた。

「3」へ続く

銭形平次捕物控 新装版 (光文社文庫)

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