イギリスで読んだ「倫敦塔」5(奥山文幸)

近代文学研究」第26号(日本文学協会近代部会、2006年4月発行)より著者の了承を得て転載。

 「倫敦塔」は、紀行文ではないし、小説でもない。小説というジャンルそのものが、文章のあり方も含めて、十分には確立されていない時期でもあった。とりあえず、エッセイということで、その虚構の度合いというものをはかるために、漱石の日記を引用する。


一〇月二八日(日)、「巴里を発し倫敦に至る。船中風多くして苦し。晩に倫敦に着す。」
同月二九日(月)、「岡田氏の用事のため倫敦市中に歩行す。方角も何も分らず。かつ南亜より帰る義勇軍歓迎のため非常の雑踏に困却せり。夜、美濃部氏と市中雑踏の中を散歩す。」
同月三〇日(火)、「公使館に至り松井氏に面会、Mrs.Nottよりの書状・電信を受く。」
同月三一日(水)、「Tower Bridge, London Bridge, Tower, Monumentを見る。夜、美濃部氏とHaymarket Theatreを見る。」


 日記によれば、到着後三日目に、タワー・ブリッジ、ロンドン・ブリッジ、ロンドン塔、大火記念館、翌日は、大英博物館ウェストミンスター寺院、七日目に、ナショナル・ギャラリー、翌日は、ハイドパークという具合に、ロンドンの名所を網羅的に見物している。ロンドンに到着後一週間の漱石は、ロンドンを六泊七日の予定で駆け回る現代の格安旅行パックの客のように精力的である。「倫敦塔」の「余」とはかなり隔たったイメージなのである。
 「美濃部氏と市中雑踏の中を散歩」したり、「美濃部氏とHaymarket Theatreを見」たりしているのだから、「在留の旧知とては無論ない身の上」というわけでもない。
 要するに、「倫敦塔」には、冒頭からすでに虚構の設定が施されている。おそらくそれは、明治維新後の日本で、新しい文学的文章を書くために何を取捨選択するかという問題に直面した漱石の解答の一部なのではなかろうか。
 「倫敦塔」が発表されたのは明治三八年の一月の「帝国文学」であり、同月「ホトトギス」に「吾輩は猫である」第一回が、同月「学鐙」には「カーライル博物館」が発表される。三作品のうち、どれが最初に書かれたのかわからないが、それぞれが同一の月に発表されたとは思えないほど、互いに文体も形式も違っている。おそらく自分に何が可能かという模索があったはずである。
 そうした模索の結果であろうか、実体験をもとにはしているが現実そのままの模写ではない「倫敦塔」は、一人称の語り手、単独者としての主人公の個性的性格付け、未知の世界への歩行という三要素を土台にして作品世界が作り上げられている。これらの要素は、その後の漱石の創作活動にとっても重要な意味を持っている。
 「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」という冒頭で始まる「草枕」は、翌年の発表であるが、先に述べた三要素が踏襲される。「坊っちゃん」も同様である。
 漱石の出発点といえば、「吾輩は猫である」にばかり目がいっていたが、どうやら「倫敦塔」も大変大事な作品であるらしい。これは、イギリスに来て初めて実感したことであった。

吾輩は猫である (岩波文庫)

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「6」へ続く

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