きぬえの「本は読みよう」第14回

半年ぶりです。さて、誰にも若いころはさほど気にかけなかったのに、齢を重ねてこそ巡り合うことができた文学というものがあるだろう。私にとってそのような存在のひとつが、田辺聖子の小説である。ある日ある時、本屋でその不思議な語呂のタイトルにつられて手に入れた短編集『ジョゼと虎と魚たち』を夢中で読んでしまった。そういえばと、自宅の本棚から高校生の時分に買った長編小説『窓を開けますか』を探し出し、三十数年ぶりに読み返すことにもなった。私の場合、この人の書くものは杉田久女の俳句への敬意を込めた評伝や、川柳や古典の心を蘇らせた自在な文章や、男社会の偏見に反論した小気味よいエッセイなどに折々刺激を受けてきたが、あまり小説のよい読み手ではなかったようだ。誰だったかは忘れたが、田辺聖子の小説を「女学生のような声で、大事なことを話しかけてくる」と表現した人がいる。その見方が根本のところでいかに的を射たものであるかを、今は思い知らされているのである。

ジョゼと虎と魚たち (角川文庫)

ジョゼと虎と魚たち (角川文庫)

窓を開けますか?

窓を開けますか?

日本の近代小説史は、「純文学」を中心として、「おもしろい文学」を周縁に位置づける傾向が顕著だった。現代においてもなお、その偏向的な文学観の被害を受けている側に、田辺聖子の小説は置かれているだろう。彼女の小説がおもしろいのは、何よりも平易で軽快な文章によるところが大きい。大阪弁を使っても、使わなくても会話文が多く、地の文が話し言葉と小説文体との絶妙な緊張関係によって形成された文体である。その会話は現実時間と回想場面とさらにその場に不在の人物のものとが巧みに接合される。箴言めいたフレーズがさりげなく使用されもする。太宰治の文章の方向でもなく、自分の「目くらましの霧」を撒きたかったとは田辺本人の言葉だが、その文章の質は、「人間失格」を装うアイロニーにではなく、「人間合格」を透視することのできる鋭いユーモアにあると言えようか。あたかも「女学生のような声」に聞こえる、わかりやすいが毒を潜ませた文章によって、若い「女の子」から30代、40代の「ハイミス」、さらには既婚者まで、仕事をもった女性を主人公にさまざまな愛と恋、別れとその予感が描かれ、その女たちと男たちの生態が暖かく、かつ批評性を失うことのない目で観察されている。たとえば、妻と過ごすよりは、仕事と仕事仲間との友情に熱中する夫の充足感を、セジウィックがひろめた<ホモソーシャルな欲望>の概念を簡単に言い当てたかのように「もうほとんど性的陶酔といっていいくらい」、「夫の『一人遊び』」と見たてる妻。また、車椅子がないと動けない「ジョゼ」こと26歳の「クミ子」と同棲中の、彼女より年下で大学を出たばかりの「恒夫」との関係を、「どうせい」でもなく「きょうせい」でもなく「共棲(ともずみ)」と表し、いわば異質な文化で育った両者の接触における人間発見と困難が、男女間の会話の妙を通して、恐ろしいほど新鮮に描き出される。そして全ての作品に見出されるのが、女性の性(エロス)が肌になじんだ言葉で語られ、のびやかに解放された新しい女の姿だ。とりわけ「ハイミス」の女であることの誇りをきちんと書く筆の力には、うなってしまう。
田辺聖子の小説は、どこまでも女と男を対比させる手法をとる。男女の対関係を人間の基本的な関係として描く発想は、女であることの意味を根源的に問う意識とはどこか異なり、男女の違いを文学の本質にして居座る部類とはなおさら異なる。そうではなく、「男」と「女」がどこからきて、今どこにいるのかを確かな目で見た文学なのである。読者は、軽快な文章が実は深い生態観察に裏打ちされた、巧緻をきわめた文章であることを理解する。若かった私には、田辺聖子のいう「めくらましの霧」という迷路の奥がよく見えなかったのかもしれない。