イギリスで読んだ「倫敦塔」4(奥山文幸)

近代文学研究」第26号(日本文学協会近代部会、2006年4月発行)より著者の了承を得て転載。

 漱石は、ロンドンに来るまで、東京、松山、熊本の順で住む場所を変えている。
 筆者は、松山に住んだ経験はないが、東京と熊本には居住経験がある。個人的な体験では、日本に住んでいる限りにおいて、どこに住むことになっても方角がわからなくなることが、根源的不安につながることは一度もなかった。それは、やがて慣れとともに方角もわかるようになる確信があったためだろう。根源的不安につながるのは、やがて慣れるはずだという確信が得られないからではなかろうか。
 不安の理由はいくつかある。まずは言葉の問題があり、さらに言葉によって構築されている日常生活の決定的な違いがある。慣れてしまえばなんでもない言葉の意味が、慣れていないために何を言っているのか見当も付かない。同じように、日常生活の何でもない習慣や動作、さらには、洗濯機の使い方までもが、日本からやってきたばかりの人間には判然としない。日本にいれば、自動車で短い距離でも移動したり、買い物の荷物を運んだりしていたものが、すべて徒歩という手段に変わる。しかも町並みは碁盤割りではない。時差ボケのだるさもなかなか解消できない。
 こうした状況から生じる不安を解消するには、慣れない日常生活を導いてくれる先導者の存在が大きい。すでに住んでいる人々に依存し、彼らから教えてもらうのである。それが日本人ならなおさらいい。手っ取り早くなじめそうな人間関係や社会の中に身を埋めて、自己の判断ではなく、他者という先導者に判断をゆだね、群棲者としての生活をすること、それが無難な生き方である。
 しかし、「倫敦塔」の〈余〉はそうではない。〈余〉は、単独者としてロンドンの街角を歩く。第三パラグラフを引用する。


 しかも余は他の日本人の如く紹介状を持って世話になりに行く宛もなく、又在留の旧知とては無論ない身の上であるから、恐々ながら一枚の地図を案内として毎日見物の為め若くは用達の為め出あるかねばならなかった。無論汽車へは乗らない、馬車へも乗れない、滅多な交通機関を利用仕ようとすると、どこへ連れて行かれるか分らない。この広い倫敦を蜘蛛手十字に往来する汽車も馬車も電気鉄道も鋼条鉄道も余には何等の便宜をも与える事が出来なかった。余は已を得ないから四ツ角へ出る度に地図を披いて通行人に押し返されながら足の向く方角を定める。地図で知れぬ時は人に聞く、人に聞いて知れぬ時は巡査を探す、巡査でゆかぬ時は又外の人に尋ねる、何人でも合点の行く人に出逢うまでは捕えては聞き呼び掛ては聞く。かくして漸くわが指定の地に至るのである。


 〈余〉は、「他の日本人の如く」紹介状に頼ることもなく、「在留の旧知とては無論ない身の上」であるから誰に世話になることもなく、「一枚の地図」だけを頼りにしてロンドンの町を歩く。彼にとっては、汽車や馬車などの交通機関も、文明のもたらす便利な乗り物どころではなく、方角喪失を増幅するが故に恐怖の対象となる。頼りになるのは、「一枚の地図」と自分の足だけということになる。「何人でも合点の行く人に出逢うまでは捕えては聞き呼び掛ては聞く」のだから、非効率的なことこの上ない歩行である。
 このとき、歩行は、A地点からB地点までの空間的距離の移動だけを示すのではなく、精神的な彷徨や幻想世界への歩行へとつながる意味合いをおびてくる。こう書きながら、私が連想するのは、宮沢賢治「屈折率」や萩原朔太郎猫町」などの作品である。
 「倫敦塔」第四パラグラフを引用する。


「塔」を見物したのはあたかもこの方法に依らねば外出の出来ぬ時代の事と思う。来るに来所なく去るに去所を知らずと云うと禅語めくが、余はどの路を通って「塔」に着したか又如何なる町を横ぎって吾家に帰ったか未だに判然しない。どう考えても思い出せぬ。只「塔」を見物しただけは慥かである。


 ここでも、方角喪失の感覚のまま、「塔」を見物したことが強調されている。「塔」見物の内容が幻想味を帯びる理由の一端が、作品冒頭から示されていることは言うまでもない。
 「倫敦塔」の〈余〉のように、筆者もカンタベリーにおいては、選択の余地なく単独者である。カンタベリーで見かける日本人はそもそもまれである。近所付き合いはないし、する予定もない。〈余〉の歩行が象徴するものは、本質的には、およそ百年後の私自身の生活の一部でもある。

倫敦塔・幻影(まぼろし)の盾 他5篇 (岩波文庫)

倫敦塔・幻影(まぼろし)の盾 他5篇 (岩波文庫)

「5」へ続く

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